ソ連の混合動力機 Part1【ラムジェット・パルスジェット編】


更新履歴 (内容に変化ないものは除く)

[2021/11/16] 記事公開

まえおき:

色々調べて書いているものの、筆者はジェットエンジンにはまったくもって詳しくはありません。明らかにおかしい表現等があればご指摘いただけると幸いです……。

ラムジェット・パルスジェットの入門的知識が得られる書籍の情報等も募集中です。お願いいたします。


弊HPでは珍しいシリーズものの記事となるが、タイトルにある通り「ソ連で開発されていた『混合動力機』たち」について、複数回に分けて紹介していこうと思う。

本シリーズで紹介するような形態の航空機は『複合動力機』とも書かれることがあるが、弊HP/記事中では『混合動力機』で統一する。

機体や開発についての話に入る前に、まずは「『混合動力機』とは何か?」というところから始めよう。

ネットの海を漂って調べてみたが、どうもこれといった定義らしいものは無さそうであった。なので筆者の個人的な考えとして書かせてもらうと、「飛行をするにあたり、2種類以上の動力を備えている航空機」とするのがよいだろうか。例えば"レシプロとジェット"、"レシプロとロケット"など、異なるエンジンを動力として飛行する機体たちということだ。

「飛行するにあたり…」としたのは、RATO/JATO (ロケット/ジェット補助推進離陸) を除外したかったからだ。ただレシプロ機に補助的なジェットやロケットが付いているというだけで、それらを『混合動力機』と呼ぶのは違うだろう。

『混合動力機』の具体的な例を挙げてみよう。ポピュラーなのは先に書いた通り、レシプロエンジンとジェットエンジンを備えたものだ。ソ連機の例は本文で紹介していくため、アメリカが開発したライアン社の”FR ファイアボール”にしよう。この機体の開発は、「初期のジェットエンジンは加速が遅く、空母での運用には適切ではないのではないか」という考えから考案されたものだ。離着陸は反応が良いレシプロエンジンで行い、戦闘時など推力が必要なときにはジェットを始動するといった具合だった。

本シリーズ記事では取り扱わないが、ジェットとロケット2つのエンジンを併せ持っている機体もあり、無論それも『混合動力機』である。実際に開発されている例としては、ターボジェットとロケットを組み合わせたメッサーシュミットのMe262C-1a, ミコヤンのYe-50などがある。また、メインはロケット推進とし、ラムジェットで巡行するロケット混合動力機も存在した。

なぜこのような「異なる種類のエンジンを組み合わせた航空機」が生み出されたのだろうか?

よくあるものとしては、「当時純ジェット動力機を作れるほどのジェットエンジンが作れなかった」、「主エンジンの燃料消費が激しく、巡行時は燃費に優れる別のエンジンを使用したかった」などがある。「それぞれのエンジンのいいとこ取り」というよりは、「片方の欠点をもう一方で補う」のが実態に近いだろう。

 

そんな『混合動力機』たちは、ソ連で数多く計画、そして試作された。それらはどのようなもので、いかなる考えで生み出されたのだろうか。

今回は『増速装置』としてのラムジェットエンジン及びパルスジェットエンジンをテーマに話をしていこう。

◆ラムジェットエンジン

この辺りの事は手元の資料では情報が乏しく、あまり全体を把握できていないが……ソ連におけるジェットエンジンの歴史は、1929年にボリス・S・ステーチキン (露:Борис Сергеевич Стечкин, スチェッキンと読まれがち) という人物が、ジェットエンジン理論についての論文を発表したことが一つのきっかけであったそうだ。1930年代に入ると、実際に各種ジェットエンジンの研究・開発が行われ始めた。その中にラムジェットエンジン、露語圏ではPVRD (露:ПВРД) と略して呼ばれるものがあった。

ラムジェットエンジンとは、その名の通り「ラム (ram)」を利用したジェットエンジンである。現代で広く使われている"ジェットエンジン"……具体的にはターボジェット/ターボプロップなどの"ガスタービンエンジン"は、燃焼室の前に「圧縮機」を有しており、これがエンジン内部に流入する空気を圧縮している。

一方ラムジェットエンジンは、ラム効果─"飛行速度が高まるとともに、空気取り入れ口に空気が押し込まれる現象"を利用して空気を圧縮している。そのため、ラムジェットエンジンは圧縮機がなく、そして圧縮機を駆動させるためのタービンも無い。とてもシンプルな構造で軽量であった。

元々ソ連におけるラムジェットエンジンは、砲弾の飛距離を延長させる目的で研究が進んでいた (ラムジェット砲弾のこと)。1933年から始まった76ミリ砲を用いた試験では、実際に砲弾の飛距離の延長が確認され、ラムジェットが推力を発揮することが認められていた。

このようなラムジェットの研究を見て、「航空機のブースターとして活用できないだろうか?」と考え、そして「離陸と巡行は効率の良いレシプロエンジンで行い、必要に応じてラムジェットを作動させて加速をする」というアイデアを提案した者がいた。それがイーゴリ・A・メルクーロフ (露:Игорь Алексеевич Меркулов) で、時は1939年7月のことであった。

彼は許可を受けて、航空機用ラムジェットエンジンの研究・開発に着手した。最初の試作エンジン『DM-1 (露:ДМ-1)』の試験は1939年8月に始まり、その1か月後には最大直径が240mmから400mmに大型化された『DM-2』の試験を始めている。10月22日にはDM-2が風洞試験に入り、「動作が正常に行え、制御も可能である」とし、信頼性と安全性が確認された。そして実際に空中でのラムジェットエンジンの試験をするフェーズへと進んだ。

pic01 (左/上):ラムジェットエンジンを搭載したI-15bis、冬季に行われた試験だったためスキーを装備していた。
Photo from:http://xn--80aafy5bs.xn--p1ai/aviamuseum/aviatsiya/sssr/istrebiteli-2/1920-e-1930-e-gody/istrebitel-i-15/istrebitel-i-15bis-s-pvrd/
pic02 (右/下):I-15bisとI-153で試験されたDM-2 ラムジェットエンジン、筒状でシンプルな構造を持つ。
Photo from:http://xn--80aafy5bs.xn--p1ai/aviamuseum/aviatsiya/sssr/istrebiteli-2/1920-e-1930-e-gody/istrebitel-i-15/istrebitel-i-15bis-s-pvrd/

ラムジェットエンジン試験機として最初に選ばれたのは、ポリカルポフの複葉戦闘機 I-15bisだった。1939年12月、試験用のI-15bis (s/n 5942) の下翼の下面に2基のDM-2が取り付けられた。高温なジェット噴流に曝されると予見された胴体後部から尾部にかけては、羽布張りからリベット留めのアルミ外板に置き換えられていた。

まずはエンジンを取り付けた状態での影響を確認するため、ラムジェットエンジンを始動しないまま飛行を行った。この時は冬季であり、I-15bisは主脚の車輪をスキーに換装して飛行していたのは、なんともソ連らしい (試作機のスキー付き飛行はしばしば見られる)。12月下旬にはラムジェットエンジンの燃料系と点火装置のテストを行い、そして1940年1月27日にラムジェットを駆動しての飛行が行われた。これは世界初のラムジェットエンジンを搭載した有人機の飛行となった。DM-2を搭載したI-15bisの試験は、同年6月下旬までに計54回行われた。

メルクーロフはこの時までに新型の『DM-4 (露:ДМ-4)』を製作し、こちらの試験も開始していた。DM-2が直径400mm, 長さ1,500mmなのに対し、DM-4は直径500mm, 長さ1,980mmに拡大された。

その後、I-15bisに変わってI-153 (s/n 6034) がテストベッドとなり、1940年9月3日にDM-2を搭載しての飛行を行ったのち、10月3日にはDM-4を搭載した初の飛行を行った。その後も試験は続けられたが、複葉機の時代は終わりを迎えていたため、1940年12月にポリカルポフ複葉機らのテストベッドとしての役割を終えた。

I-15bisやI-153のほかに、ボロフコフとフロロフの試作複葉戦闘機 I-207もラムジェットエンジンを搭載していた。I-207の試作3号機が、速度改善を目的としてDM-2を搭載し試験を行ったという。結果はポリカルポフの機体らと大差なく、特筆すべきエピソードもないため、この機についての説明は省かせてもらう。

次のステップは、より先進的な戦闘機での試験だった。新たな試験機として、当時のソ連における最新鋭機の一つであるヤコヴレフ Yak-1がその対象に選ばれたのだが、最終的に試験機となったのは、Yak-1をベースに作られた複座練習機 Yak-7UTI (露:Як-7УТИ) であった。純粋な戦闘機たるYak-1ではなくYak-7UTI [註1] が選ばれたのは、Yak-1と比べ主脚が強く重量に余裕があったことや、複座機でありテスターを同乗させるのに都合が良かったことなどがあるのではないかと筆者は考えている [独自研究]。

pic03 (左/上):Yak-7Bを改造したYak-7PVRD。
Photo from:http://xn--80aafy5bs.xn--p1ai/aviamuseum/aviatsiya/sssr/istrebiteli-2/1940-e-1950-e-gody/istrebiteli-kb-yakovleva/istrebitel-yak-7/istrebitel-yak-7r/
pic04 (右/下):翼下に搭載されたDM-4S、エルロンとフラップに干渉しないように配置されている。
Photo from:http://aviadejavu.ru/Site/Arts/Art9290.htm

搭載したラムジェットエンジンは、I-153が搭載したのと同じDM-4ではあったが、それからさらに全長が延長された (1,980mm→2,300mm) DM-4Sというモデルであった。

飛行試験は防空軍の第12親衛戦闘航空連隊 (12 GvIAP-PVO) の手で行われたが、その中で高い危険性が指摘された。ラムジェットエンジンの搭載により重心位置が大幅に前方に移動し、それによるノーズオーバーの危険性が高まったこと。そして、ラムジェットエンジンの振動に起因する燃料漏れが多発したことなどが原因という。これにより当機は飛行が差し止められてしまった。その後、工場の疎開や戦況からリソースを割く余裕が無かったことなどが重なり、最終的に約2年間の中断となってしまった。

1944年に入ると、新たにモスクワ工場製のYak-7B (M-105PF搭載, s/n 820803) が用意され、DM-4Sもより信頼性が高められたものが搭載された。Yak-7Bは戦闘機型であるため単座であったが、テスターの為に戦闘機化に際し削除されていた後部座席が再び設置されている。合板で覆われた後部座席の風防にも、エンジンを視認するための覗き窓が追加されていた。

ラムジェット付きのYak-7Bは、Yak-7VRDもしくはYak-7PVRDと呼ばれ、3月24日から再び試験が行われた。当初はラムジェットを作動しないままの飛行が続けられ、再び作動をしての試験が始まったのは5月15日になってからであった。DM-4Sの使用時、海面高度では494km/hから513km/hに、高度7,300mでは633km/hに達した。作動時の増速効果は53km/hとなった。


[註1]:実は生産型のYak-7UTIではなく、その原型機であるUTI-26の2号機だったそう。原型機はしばしばこうした試験機として再利用されている。これもそのうちの一つ。

PVRDの"増速効果"

さて、ここまでに書いてきた通り、ラムジェットエンジンはいくつかのエンジンとテストベッド機を経て、増速効果を大きくさせてきた。当初I-15bisとDM-2の組み合わせでは22km/h程度だった増速効果は、Yak-7BとDM-4Sでは53km/hまで向上した。エンジン設計の改良と、機体速度が高まったことによる推力の向上の結果である。

 

ただこれにはちょっとした"ウソ"がある (……嘘は少し言い過ぎだが、他に良い言い方が思いつかなかった)

この"増速効果"とは、あくまで非作動時と作動時の速度差であって、ラムジェットエンジンを付けていない機体との比較ではないのだ。

当たり前のことだが、作動していない状態でのラムジェットエンジンは、機外にぶら下げられた大きな筒に過ぎない。どの機体もラムジェットを付けていないクリーンな状態に比べ、速度は大きく低下している。言ってしまえばマイナススタートなのだ。

実際のブースターとしての増加分と言えるのは「クリーンな機体の最高速度と比較しての差分」であり、それは結局のところ大した速度差にはならなかった。Yak-7PVRDのラムジェット使用時の増速効果は53km/hだが、クリーンな状態との差は僅か19km/hに過ぎない。

また、設計時の試算ではもう少し高い速度を発揮するとしていたのだが、思ったほどの効果が得られていないのが現実であった。

知っている人ならばもう結論は分かり切っているであろうし、知らない人は「ラムジェットエンジンというのは、駄目なジェットエンジンだったのか……?」となってしまいそうなので、結論に移ろう。そもそもとして、この時代の航空機の速度では、ラムジェットエンジンを有効に扱うことは出来なかったのだ。

冒頭に述べた通り、ラムジェットエンジンは「圧縮機」が無く、空気の圧縮には「ラム圧」を利用している。そしてこのラム圧は、機体の進む速度が増すほど高まる=より空気が圧縮される。圧縮機の代わりにラム圧を使うならば、同程度とは言わずともそれなりの仕事を果たしてもらわねばならない。

しかし、この時代のレシプロ機の飛行速度では、十分なラム圧を稼ぐための速度に達することができない。もちろん試験結果で増速効果が見られる通り、ラムジェットエンジンとして動作はしているのは確かだ。だが、それでは不十分なのだ。(身もふたもない話をすれば、ラムジェットエンジンが亜音速で圧縮機なしに充分な推力を発生させられるのだとしたら、ターボジェットエンジンなんてものは必要ない……)

 

ラムジェットエンジンというものが本来のポテンシャルを発揮し始めるのは、もうしばらく後になってからのことである。

 

一応「ブースターとしてのラムジェットエンジンの話」は、ここまでで完結してしまっているのだが、メルクーロフ以外にも開発されていたエンジンの話や、計画機と言ったネタも紹介していこう。

ボンダリュークのPVRD

メルクーロフの他に、ミハイル・M・ボンダリューク (露:Михаил Макарович Бондарюк, ボンダリュックとも) という人物もラムジェットの研究を進めていた。

彼は最初にVRD-1という小型のラムジェットエンジンを開発し、1942年8月にそれはLaGG-3 (s/n 31213173) の主翼下に搭載された。同月5日から飛行試験が始まり、計14回の試験が行われた。VRD-1は2つの異なる仕様があったらしく、一つは直径140mmで長さ2,150mm、もう一つは直径170mmで長さは1,900mmとなっていた。重量は共に16kgだという。

増速効果は大したものではなかったが、当時としては結果に将来性があるものとされ、さらなる作業の継続を許可された。そして1944年に生まれたのが、VRD-430 (露:ВРД-430, PVRD-430とも) と呼ばれるエンジンだった。

これを搭載した機体と言うのが、ちょっと変わったものだった。ラヴォチキン設計局が開発していた最新の試作戦闘機、後のLa-9に繋がる機体の一つだったのである。

1945年、La-7をベースとした試作戦闘機«120» [註2] が開発された。これはエンジンをASh-83 (離昇1,900hp) に換装し、主翼を新規設計の層流翼に置き換えたものだった。この機体もまた混合動力機に関わるものなのだが、それはPart2 ロケット編の方で紹介しよう。

これに続いて、いまだ外板が木製だった«120»の主翼を全金属化し、胴体前部の金属製構造への置き換えも行った«126»が作られた。こちらはエンジンをLa-7らと同じASh-82FNへと戻しており、「エンジンはそのままに、層流翼への置き換えと金属化が進められたLa-7」という感じになっていた。

«126»の試験は1945年12月から翌年4月まで行われた。しかしこの間に、«126»をベースに全金属化を行ったバージョンである«130»が作られ、結局はこちらが有望とされたために一度その役目を終えたのである。

pic05 (左/上):«126»にVRD-430を装着した試作機、局内名称«164»。
Photo from:http://www.airwar.ru/enc/xplane/la138.html
pic06 (右/下):«164»の翼下にあるVRD-430ラムジェットエンジン。
Photo from:http://www.airwar.ru/enc/xplane/la138.html

せっかく作った試作機を数十回の飛行で使い潰すのは勿体ないと考えたのか、新たな試験プログラムが開始された。それがVRD-430を搭載したレシプロ-ラムジェット混合動力機計画である。

と言っても、新規性は「ボンダリュークの新型エンジンを使用する」というだけで、それまでの混合動力機同様に翼下にラムジェットエンジンを搭載しただけのものであった。このラムジェット付き«126»は、新たに«164»とナンバリングされた。1946年6月から2カ月の間に34回の試験飛行をこなし、作動時の増速効果は104~109km/hほど、クリーンな状態との比較では62~64km/hであったという。

この結果を受けて、新たに制式採用された新型戦闘機─La-9でも試験をすることが決定された。1946年末にVRD-430を翼下に搭載した試験機«138»が作られ、翌年3月から8月にかけて試験を行った。しかしながら、この頃には既に時代はターボジェットエンジンの実用化が進んでおり、その重要性は大きく下がっていた。詳細な試験のデータも残されていないとのことだった。

 

最終的には、VRD-430の動作信頼性が不十分であることなどを理由に採用に至らず、レシプロ機にラムジェットエンジンブースターを付けるという試みは、この機体をもって終わりを迎えたのであった。


[註2]:書籍によっては”La-120”とも書かれるが、これは実際の名称ではない。設計局内で用いられる試作機の名称に「La-XX」という形式が付けられることは (少なくとも当時は) 無い。

計画機 «D»

ここまでは既存の航空機へのラムジェットエンジンの追加の話だったが、完全新規設計によるレシプロ-ラムジェット混合動力の計画機も存在した。そのうちの1つを紹介しよう (現時点でこの機体しか見つけられていないが)。

時をさかのぼって1940年、究極の複葉戦闘機I-207を開発していた二人の設計者─ボロフコフとフロロフは、新たに«D» (露:«Д») と呼ばれる計画機の開発を進めていた。

これは推進式のエンジン配置に、後退した層流翼とツインブームスタイルを持つ、先進的なデザインの機体であった。エンジンは開発中だったシュヴェツォフの空冷エンジンM-71と、メルクーロフのDM-12というラムジェットエンジンを搭載するとされていた。レシプロエンジンはコクピット後部に推進式 (後ろ向き) に、ラムジェットエンジンは主翼から伸びて尾翼へ繋がるブーム部に内蔵されるようになっていた。

Photo from:https://military.wikireading.ru/8051
Photo from:https://military.wikireading.ru/8051

ここまでの機体では、ラムジェットエンジンは翼下にぶら下げられる形で装備されていたが、当機は機体構造 (ビーム内) に組み込まれており、非作動時の抵抗を極力減らすようになっていた。

なおコクピット後方にプロペラがあるため、脱出時は座席を含む部位が下方に排出されるとしていた。

試算では、ラムジェット作動時の最高速度は850km/h、その使用可能時間は20分とされた。武装は37mm機関砲2門と20mm機関砲2門が機首に収められるものとし、非常に強力な迎撃機となると目されていた。

流石に彼らも1年や2年で実現するものだとは考えていなかった (エンジンも完成に程遠い状態である) 訳だが、そのような計画機の開発が独ソ戦の最中に続けられる訳もなく、他の実現性の低い計画機・試作機らと共に計画は中止となった。

PVRDのその後

ここまでに記してきた通り、メルクーロフやボンダリュークらが開発していたラムジェットエンジンは、ブースターとしては大成することは無かった。だがそれは単に「(レシプロエンジンと) 組み合わせが悪かった」、「使い方が悪かった」だけの話である。1950年代に生まれた『La-17』無人標的機や大陸間巡航ミサイル『ブーリャ (Burya, 露:Буря)』などには、ラムジェットエンジンが搭載されているし、その後も無人の飛翔体の方面で活用されているというのは、恐らく読者の方が詳しいことだろう (私は40年代までのことしか知らないので……)

 

という訳で、PVRD─ラムジェットエンジンについては以上とし、次のジェットエンジンの話に移ろう。

◆パルスジェットエンジン

お次に紹介するのはパルスジェットエンジン。露語圏ではPuVRD (露:ПуВРД) と略されるものだ。略語がラムジェットエンジンの"PVRD"と似ているが、一部特徴の一致はあれど全くの別物である。露語において、元の語の頭文字を取るとどちらも”PVRD”になってしまうため、語が被る事を避けるためPuVRDとしている。

ガスタービンエンジン (ターボジェットなど) やパルスジェットエンジンは、空気を連続的に吸気し、圧縮された空気を燃料と混合させながら常に燃焼し続けている。

一方パルスジェットエンジンは、エンジンの内部に自動で開閉するシャッターを有しており、これは吸気量の調整と燃焼ガスの逆流を阻止する役割を持っている。前方から取り入れられた空気は、他のジェットエンジンと同様に燃料と混合されて燃焼されるわけだが、その時に前方にあるシャッターが閉じられ、ガスが前方から逆流するのを防ぐようになっている。燃焼が終わるとシャッターが開いて吸気し、再び燃焼する流れだ。このサイクルを高速で繰り返し、断続的な爆発によって推力を発生させるのがパルスジェットエンジンなのである。

前項のラムジェットエンジンと同じく、「圧縮機とタービンを持たないジェットエンジン」ではあるが、このように仕組みは異なっていた。

ソ連において、パルスジェットエンジンは30年代時点で研究が進められていたのだが、当時挙がっていた課題を検討した結果、将来的に有望と目されていたラムジェットエンジンの方に注力することが決定されてしまった。それにより一時開発が中断、そして規模縮小の憂き目にあった。結果、他のジェットエンジンより出遅れることになってしまったのである。

パルスジェットエンジンに関する研究が再開されたのは、41年から42年にかけての頃で、それからいくつかのエンジンが開発されたそうだ。

そのうちの一つに、冒頭にも名前が出たボリス・ステーチキン (スチェッキン) による『US (露:УС, ステーチキン加速装置の略)』があった。エンジン自体の詳細は不明だが、Tu-2とPe-8へ搭載することを考えたブースターらしく、後者の場合は片翼6基ずつ─計12基を搭載するものとされていたそうだ。

実はこのUS、ステーチキンが投獄中に開発していたものだった。どれほどの設計・開発が進んでいたかは不明だが、1943年にアレクサンドル・ミクーリン [註3] の要請によりに釈放されたタイミングで、USの開発は中止となった。


[註3]:BT-7軽戦車やTB-3爆撃機が搭載したM-17や、MiG-3戦闘機が搭載したAM-35などに携わったあのミクーリンである。ステーチキンは彼と仕事を共にしてきた仲だった。

チェロメイのPuVRD

パルスジェットエンジン研究に最も貢献していたのは、ウラジーミル・ニコラエヴィチ・チェロメイ (Владимир Николаевич Челомей) だった。

彼は1942年の後半にはパルスジェットエンジンの試験に着手し、1943年に実験用のパルスジェットエンジン『VCh-1 (露:ВЧ-1, Vladimir Chelomey-1)』を開発した。その後も試験の中で明らかになった欠陥を解消した『VCh-2』を開発、さらにはパルスジェットエンジンを利用した無人機の設計も進めていた。

ソ連ではこの頃になっても、依然としてパルスジェットエンジンはあまり有望とは思われておらず、どちらかと言えば懐疑的な目で見られていた (と言っても研究・開発は出来ているので、全くという訳でもなかろうが)。

そんな彼の研究にスポットライトが当たったきっかけは、1944年6月12日─ドイツの飛行爆弾 V-1 (Fi 103) が英国本土を攻撃し始めたことであった。諜報活動の成果なのか以前よりその存在自体は掴んでいたようで、いざ実際にそれが使用されたと知ると、その兵器の動力と同じパルスジェットエンジンを開発していたチェロメイがソ連国家防衛委員会 (GKO, 露:ГКО) の会議に召喚された。その会議の結果、パルスジェットエンジンにより飛行する無人の発射体、つまるところV-1のような飛行爆弾の開発が決定された。この無人の発射体は、その存在を秘匿するため『10Kh (露:10Х)』と名付けられた。

『10Kh』本体の開発は、第51工場 (そしてOKB-51) の長であったニコライ・ポリカルポフが担当することと決まり、チェロメイはそのエンジンの開発を命じられた。しかし設計を進める最中、同年7月30日にポルカルポフが癌により亡くなったため、代わりにチェロメイが工場の長となり、計画自体も彼が進めることとなった。今回はあくまで混合動力機の話であるため、『10Kh』についての話はこれくらいにさせてもらおう。

pic07 (左/上):V-1と酷似した外観の10Kh、上部にあるのがパルスジェットエンジン D-3。
Photo from:http://www.airwar.ru/weapon/ab/10x.html
pic08 (右/下):D-3を背部上面に搭載したPe-2改造の試験機。
Photo from:https://www.parkflyer.ru/ru/blogs/view_entry/2781/

彼は『D-3 (露:Д-3)』呼ばれるパルスジェットエンジンを開発し、1944年10月12日より試験を開始した。実用的なパルスジェットエンジン開発は初めてであったため、当初はいくつものトラブルに見舞われたようだったが、10月末に英国からもたらされた不発機の残骸などをもとに部分的な再設計や改良を続け、12月25日に工場におけるすべての試験が終了した。

『10Kh』に搭載する前の空中での試験のため、ペトリャコフの双発爆撃機Pe-2が用意された。『D-3』エンジンは機体後部上面に背負う形で搭載された。具体的な内容は不明だが、試験の結果は肯定的なものであったという。ブースターとしてではなく単なるエンジンテストベッドではあったが、ともあれこれがソ連で最初の実用パルスジェットエンジンを搭載した航空機の飛行となった。

パルスジェットエンジンをブースターとして搭載した混合動力機の登場は、戦後になってからのことである。チェロメイは『D-3』の他にもいくつものエンジンを開発したが、その中には発射体用ではなく、航空機のブースター用に設計されたものもあった。それが『D-10 (露:Д-10)』および『RD-13 (露:РД-13) [註4]』と命名された、2つの航空機用パルスジェットエンジンである。寸法含めデータが少ないため、あまり多くは分からないのだが、発射体用のエンジンよりいくらか推力が小さいようである。

pic09 (左/上):D-10エンジンを搭載したLa-7、整流のため固定具はフェアリングに覆われている。
Photo from:http://www.airwar.ru/enc/xplane/la138.html
pic10 (右/下):ラムジェットエンジンを搭載したLa-9RD、エンジンはD-10とのこと。
Photo from:http://www.airwar.ru/enc/fww2/la9rd.html

1945 年 11 月、まずはラヴォチキンのLa-7に『D-10』を搭載して試験が行われた。1946年に始まった試験では、高度 3000 メートルにて (非作動時と比べて) 119km/hの増速効果が確認されたが、機体強度から来る速度制限に達したため、それ以上の速度計測は出来なかった。また、La-7も機体としての寿命を迎えた [註5] ため、それ以降の試験は同設計局の新型機La-9に引き継がれた。1947年の後半に新型の『RD-13』を搭載したLa-9が飛行し、こちらは127km/hほどの速度増加を記録したという。

最適な高度での増速効果はそれなりに良好なものであったが、良いことばかりではなかった。まずラムジェットエンジンと同じく、非使用時に空気抵抗と重量が増加すること。『RD-13』を搭載したLa-9の速度低下は57km/hにもなり、増速効果の大半は空気抵抗による低下分を取り戻したに過ぎなかった。

テストパイロットからの報告では、操縦性およびロールレートの悪化。そして、パルスジェットエンジン特有の断続的な爆発的燃焼から生ずる激しい振動が飛行を困難にさせたというものもあり、これは特に不評だった。この振動の問題は、ドイツの試作パルスジェット動力機 Me328でも発生しており、こちらでは原型機のテスト中に機体の破損事故が起きているほどだった。

上記の様な問題やエンジンの特性などを鑑みた結果、レシプロ機のブースターとしては利用価値が低いと結論付けられ、この方面の開発は中止となった。

不思議なことに、結論が出てなおいくつかのパルスジェットエンジン搭載機が製作されている。資料によってその機数には諸説あるが、少なくとも9機のLa-9がLa-9RD仕様に改造されたという。それらの目的は試験ではなく、航空ショーで観客に見せるため……つまり"出し物"の一つとして用意されたのだった。「価値無し」となってなおこのような事がなされたのは、恐らくはパルスジェットの発する爆音と尾を引くような炎は「ハッタリが効く」と判断されたからだろう。

1947 年8月30日、9機のLa-9RDが独特な音を響かせてツシノ上空高度100mを飛行し、当時のソ連の航空力を示す『役者』となったそうだ。

 

レシプロ-パルスジェット混合動力機については以上である。


[註4]:参考にしたものには、「RD-13」ではなく「D-13」としているものもあった。何故同時期のパルスジェットエンジンにもかかわらず「D」「RD」と接頭語が違うのかは分からない。「D-13」の方が自然な感じはするが、命名については不明である。

[註5]:戦時の木製部を有する戦闘機の寿命は2年ほどとされていた。

その後のPuVRD

ブースターとしてのパルスジェットエンジンの活用は失敗に終わったが、単体の動力としては誘導兵器の方面で研究が続けられた。文中に登場した無人発射体『10Kh』から発展した14Khや16Khなどには、D-3に続いて開発されたD-5, D-6といったエンジンが搭載されていた。

残念ながら1950 年代初頭にプロジェクトが中止とされ、設計局も閉鎖となり、無人発射体計画は終了となった。パルスジェットエンジンが実用的な兵器に用いられる見込みは低く、他の誘導兵器の開発も進んでいたことから、何にしても未来は無かったことだろう。

どうやら近年また注目されているという話があるらしいが、それは専門外かつ別の話なので、ここまでとしよう。

◆圧縮機なきジェットたち

という訳で、ラムジェットとパルスジェットという、圧縮機のないものたちの話は以上だ。

それぞれ異なる問題を抱えていたが、共通していた問題点は「非使用時の大きな空気抵抗」だ。ポッド式に翼下にぶら下げた結果、非作動時は数十km/hの速度低下となり、他にも離陸滑走距離の延長、上昇性能の低下にも繋がっている。途中で紹介した計画機«D»は一つの解決へのアプローチだったが、計画のまま終わってしまった。

ポッド式は空気抵抗の他にも、(装着による) 重心位置の変化やロール率の低下、翼強度の問題もあるので、この方式自体厳しいものがあるのではないだろうか。

また、それぞれの解説では省略したが「燃料消費が激しい」という問題もあった。どちらも燃焼にはレシプロエンジンと同じ航空燃料を使用するのだが、それの消費量は過大なものだった。例えば、ラムジェットエンジンのDM-4Sは、毎分12kgほどの航空燃料を消費する。翼下に計2基搭載するため、実際はその倍の量が消費されていく。そして当時の主力戦闘機Yak-1の搭載燃料は305kgに過ぎない。後期のLaGGやLa系も340kgと大差はない。これではたとえ戦闘中の使用に限ったとしても、少々心もとないだろう。実用するにはもっと多く燃料を搭載する必要がある。ソ連戦闘機はどれも機体規模が小さいこともあり、既存の機体では燃料を増やすにも限度があった。

エンジンの種類が何にしても、これらの問題を解決しないことには『混合動力機』が満足なものとはならないだろう。

Part 2と3では、また別の手法による混合動力機たちを紹介していくが、それらはまた別の特徴、利点と欠点を抱えていた。今回のテーマのエンジンとも関わりはあるものなので、上記の問題などについては、頭のどこかに置いておいてもらえるとより楽しめるのではなかろうか。


えーと、今回の感想ですが。疲れました。専門外ギリギリのラインなので。ジェット分からない。書いてる途中にジェットエンジンの入門的な本を読んで頑張りましたが、それにも限界があります。疲れました。出来ればもうやりたくない。

英語圏にいいページが無かったのも疲れた原因。どうして……。

 

元々Part 1とPart 2を合わせて前編、VRDK編を後編にするつもりだったんですが、情報量がモリモリ増えてって、8,000文字を超えたあたりで諦めて分割しました。それでも1万文字くらいになったのでそら疲れますよね。ちなみにVRDK編は9,000文字です。

 

2022年11月14日現在、続きは来年の前半に作成予定なので、気長にお待ちください。

前半と言っておいて12月に完成しました……続きをどうぞ。 (2023/12/10)


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<参考リスト>

=PVRD関連=

■『世界の傑作機 No.133 ポリカルポフ I-16』, 文林堂, (2009)

p. 22, 33, 37, 46, pp. 78-79

■『世界の傑作機 No.143 ラヴォチキン戦闘機』, 文林堂, (2011)

p. 21, 28, 31

■『Soviet X-Planes』, Midland Publishing, (2000)

p. 84, 87, 152, 208

■『Soviet Combat Aircraft of the Second World War Volume One: Single-Engined Fighters』 (1998)

p. 138

■『Yakovlev Aircraft since 1924』Bill Gunston, Yefim Gordon, putnam aeronautical books, (1997)

p. 76

■『Yakovlev Fighters of World War II』, Hikoki Publications, (2015)

p. 125, 126

■『Encyclopaedia of Soviet Fighters 1939-1951』(2005)

p. 46

 

◆Истребитель И-15бис с ПВРД.

http://xn--80aafy5bs.xn--p1ai/aviamuseum/aviatsiya/sssr/istrebiteli-2/1920-e-1930-e-gody/istrebitel-i-15/istrebitel-i-15bis-s-pvrd/

◆И-207|Airwar.ru (露)

http://www.airwar.ru/enc/fww2/i207.html

◆Як-7Р|Airwar.ru (露)

http://www.airwar.ru/enc/fww2/yak7r.html

◆Ла-138|Airwar.ru (露)

http://www.airwar.ru/enc/xplane/la138.html

◆138/164|S・A・ラヴォーチキン記念科学製造合同 (露)

https://www.laspace.ru/company/history/aviation/combined/138/

◆Экспериментальный истребитель Ла-138.

http://xn--80aafy5bs.xn--p1ai/aviamuseum/aviatsiya/sssr/eksperimentalnye-samolety/eksperimentalnyj-istrebitel-la-138/

◆Экспериментальные работы по ПВРД и самолетам с ПВРД (1930-1948) (露)

https://testpilot.ru/espace/bibl/evstafiev/text/07.htm

◆Д (истребитель)|Wikipedia (露)

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%94_(%D0%B8%D1%81%D1%82%D1%80%D0%B5%D0%B1%D0%B8%D1%82%D0%B5%D0%BB%D1%8C)

◆РАЗВИТИЕ ПРЯМОТОЧНЫХ ВОЗДУШНО-РЕАКТИВНЫХ ДВИГАТЕЛЕЙ В СССР. (露)

http://iitrar.narod.ru/st023.htm

◆О ПЕРВЫХ ИСПЫТАНИЯХ В ПОЛЕТЕ ПРЯМОТОЧНЫХ ВОЗДУШНО-РЕАКТИВНЫХ ДВИГАТЕЛЕЙ (露)

https://epizodyspace.ru/bibl/izist/pob.html

=PuVRD関連=

■『世界の傑作機 No.143 ラヴォチキン戦闘機』, 文林堂, (2011)

p. 17, 30

■『Soviet X-Planes』, Midland Publishing, (2000)

p. 84-85

■『Lavochkin Fighters of the Second World War』Jason Nicholas Moore, Fonthill Media (2016)

■『ドイツ軍用機辞典 1930-1945』, 野原 茂, イカロス出版, (2022)

p. 121

 

◆Самолеты-снаряды Челомея — первые в стране|Наука и техника (露)

https://naukatehnika.com/samoletyi-snaryadyi-chelomeya-pervyie-v-strane.html

◆10Kh|Wikipedia (英)

https://en.wikipedia.org/wiki/10Kh

◆10Х|Wikipedia (露)

https://ru.wikipedia.org/wiki/10%D0%A5

◆Между прошлым и будущим|ВикиЧтение (露)

https://military.wikireading.ru/23228

◆Полуреактивные «Ла»|Военное обозрение (露)

https://topwar.ru/37647-polureaktivnye-la.html

◆Ла-138|Airwar.ru (露)

http://www.airwar.ru/enc/xplane/la138.html

◆5. Самолеты с пульсирующими воздушно-реактивными двигателями|ВикиЧтение (露)

https://history.wikireading.ru/264142

◆Главный моторист Советского Союза: к 130-летию Бориса Стечкина (ボリス・ステーチキン生誕 130 周年を記念して) (露)

https://rostec.ru/news/glavnyy-motorist-sovetskogo-soyuza-k-130-letiyu-borisa-stechkina/

◆ВПК «НПО машиностроения» (露)

http://npomash.ru/press/ru/tribuna401009.htm?l=0&prn=y

◆В.Н. Челомей. Часть I|lemur59.ru (露)

http://lemur59.ru/node/10043

◆СОВЕТСКИЕ И РОССИЙСКИЕ КРЫЛАТЫЕ РАКЕТЫ: ИСТОРИЯ

https://www.aviaport.ru/digest/2020/12/01/660305.html

◆Меркулов, Игорь Алексеевич (メルクーロフ)|Wikipedia (露)

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9C%D0%B5%D1%80%D0%BA%D1%83%D0%BB%D0%BE%D0%B2,_%D0%98%D0%B3%D0%BE%D1%80%D1%8C_%D0%90%D0%BB%D0%B5%D0%BA%D1%81%D0%B5%D0%B5%D0%B2%D0%B8%D1%87