ソ連のMustang Mk.IとP-51


更新履歴 (内容に変化ないものは除く)

[2021/05/04] 新規作成。

レンドリース機やその他供与機などについて紹介していくシリーズの第4回目。今回はソ連に渡ったMustang Mk.IとP-51Dについて紹介する記事である。

 

ソ連での話をする前に、「Mustang Mk.Iって何ぞや?」という方も居ることだろうと思うので、軽くではあるが、そこから話をしていこうと思う。

ソ連のMustang Mk.I

◆Mustang Mk.Iという機体

Mustangとは何か。とてつもなく簡単に、語弊を含む感じで言えば「英国向けのP-51」であるが、それでは流石に説明が不足しすぎているだろう。

そもそもの話、P-51という機体の出自は、英国向けの輸出戦闘機であった。1939年9月に対独宣戦布告を行った英国は、各種軍備の充実に着手したが、航空機の数を急速に増やすには国内生産だけではまかないきれないことは明白であった。そこで1940年の初め、米国からカーチス P-40の購入を試みたが、既にカーチス社の生産は米陸軍航空隊への分で精一杯であり、英国分を生産する余裕は無かった。

そこで別のメーカーによるライセンス生産を検討し、ノースアメリカン社にP-40Dの生産を打診した訳だが、彼らはこれを断り、自社設計の新型戦闘機NA-73の生産を持ちかけてきた。これから生産設備を整えて生産を開始し、引き渡しが行われる頃には、既に旧式化も著しいだろうという判断もあり、NA-73案の開発・生産を承認した。そして、すったもんだの末に生まれたのが、今回の主役Mustang Mk.Iである。

その後、当初は全く興味が無かった米陸軍が後追いで採用したものがP-51となるのだが……それは今回関係が無いので割愛。

最初のMustang Mk.Iは、41年10月に英国へ到着した。試験では、英国空軍の主力戦闘機であるSpitfireのLF Mk.Vbより速く、操縦性や安定性も良いと評された。一方で搭載していたエンジンに起因する高高度性能の低さや、上昇性能の悪さが問題とされた。

一定の評価をしつつも、高高度性能に難がある機体を制空戦闘機として運用することは出来ず、Mustangらは『戦闘機軍団 (Fighter Command) 』ではなく、戦術偵察と地上攻撃を主任務とする『陸軍直協軍団 (Army Co-operation Command) 』に配備されることとなった。

機体の配備は42年1月から始まった。初出撃は、42年5月10日のフランス沿岸部への強行偵察で、その後も沿岸部の偵察や対地攻撃を度々行った。同年8月19日のディエップへの奇襲上陸作戦―『ジュビリー作戦 (Operation Jubilee)』においては、同機を装備する4飛行隊が参加。この戦いでFw190を撃墜し、Mustang初の撃墜を記録している。

 

Mustang Mk.Iへの理解はこれくらいでよいだろう。本題のソ連での話に移るとする。

◆ソ連へ渡ったMustangと試験評価

英国は、戦闘機としての運用に適していないと判断したMustang Mk.Iを陸軍直恊軍団送りとしていたが、より確実な手段で数を減らそうと思ったのか、ソ連に送ることを決めたらしい。「コレ気に入ったらもっと送るけど?」ということだろう。

当時ソ連はMustang Mk.Iの存在を認識していなかったのか、もしくは興味が無かったのか、ソ連側で作成していた連合国からの購入推奨物資の一覧には当機の名前は記載されていなかった。また、彼らがMustang Mk.Iを要求したという記録も確認されていない。

最初の2機のMustangは、1941年12月6日に英国からソ連へ向けて出発した。到着後、1942年6月から7月にかけて空軍研究所 (NII VVS) による試験が行われた。

 

pic01:NII VVSで試験を受けるMustang Mk.I AG348、蛇の目は星で上書きされ、尾翼も塗り潰されている。
Photo from:
http://www.airwar.ru/enc/fww2/mustang1.html

まず速度性能では、高度3,700mで587km/hを記録した。これは当時自国で最も優れているとされたヤコヴレフ Yak-7B M-105PFよりも、数十km/h優速であった。より高い高度においては、さらに差を付けている。いかに高高度性能が劣ると評されるアリソンV-1710 エンジンと言えども、低高度向けにチューンされているクリーモフ M-105PFと比べれば、まだ中高度以上でのパフォーマンスに優れていたのである。

587km/hという数値だが、英国では615km/h (計画値でなく実測の筈) を記録しているので、30km/h近く遅かったことになる。だが、それでいてもなお優れた高速性を有していたことが、ソ連の関係者に示されたのだ。 (テスト機は恐らく第1生産ロットの若いシリアルの機体なので、英空軍での運用によりいくらかくたびれていたのだろうか? そもそも国によって計測の仕方、基準が異なるので比較が難しい……)

他に良い評価が得られていた点を挙げると、操縦の容易さ、長距離飛行に適した優れた安定性、コクピットが広々としていて装備が整っていることなどがあった。

 

 

また武装については、当時のソ連主力戦闘機らを上回る投射量を評価している。ただ機関砲を搭載していない為に、装甲に保護された敵機に対してあまり効果的でないだろうともしている。

否定的に捉えた点としては、まず上昇性能の悪さがあった。Mustangの5,000mまでの上昇時間は9分で、Yak-7Bよりも3分余計に要した。一応今回参考にした資料の一つには、「6,096mまでの上昇時間は10分」という記述があったので、実際それくらいかかるのだろう。

また、旋回所要時間や旋回半径においても、当機はソ連機に比べ劣るとの評価がなされた。ソ連空軍の考えとしては、前線戦闘機 (=制空戦闘機) で重視すべきは、上昇性能と機動性である。これらの両方で自国機に劣るようでは、より優れた性能を有するドイツ空軍機には到底対抗することなど出来ないと判断された。

◆ソ連での運用

先述の通り、ソ連の物差しで測られたMustang Mk.Iは、結果として「前線での運用に適さない」との判断がなされた訳だが、幸いにも即時処分されるといった事は無かった。 

まず、ソ連に到着したMustang Mk.Iは約10機とされ、資料によって12機としているものもある。これらは全て輸送船に積み込まれて運ばれてきた訳だが、これらがどのように使われたかを記していこう。

 

pic02:pic01と同じ機体の別アングル。翼下の蛇の目も塗り潰された跡が見える。
Photo from:
http://www.airwar.ru/enc/fww2/mustang1.html

最も多く、長く、そして有用な運用がなされたのは、訓練機としてであった。供与機の約半数を占める5機のMustangは、イヴァノヴォを拠点とする第6予備航空旅団 (6 ZAB, 露:6 ЗАБ) に送られ、第1空輸航空師団 (1 PAD-GVF, 露:1 ПАД-ГВФ) のパイロットを訓練するために使用されたのだ。

 

第6予備航空旅団は、主に米英のレンドリース機への機種転換を受け持っており、第1空輸航空師団はAlSibルート (アラスカ-シベリアを結ぶ航空路のこと) を用いて、米国から航空機を空輸する任務を受け持つ部隊であった。つまりこれらの機体は、米国機を空輸するパイロットを教育するための訓練機として使われたということだ。

[AlSibルートの飛行経路。今回は画像等があんまり無いので、こういうのを置いてお茶を濁すよ]

機種転換もしくは慣熟訓練において、米英のレンドリース航空機と自国製航空機とでは、ある決定的に異なる点があり、それに慣れる必要があったからだ。それは何だろうか?

そう、答えは「単位」だ。ソ連はメートル法を用いており、機体の設計も計器もメートル基準である。一方米英は知っての通りヤード・ポンド法だ。高度はフィート (ft)、速度はマイル (mi) な訳だ。全て挙げることはしないが、他の各種単位も異なっている。

まずは座学でこれを学ぶだろうが、実際に飛行して計器を覚える事も必要である。またコクピット内の機材類も、様々な点でソ連の航空機とは異なっている事だろう。

Mustang Mk.Iは戦闘機としては使用できなくとも、飛行に関しては問題が無いのだから、貴重な前線に投入できる戦闘機の代わりに訓練機として割り当てたのだ。

第6予備航空旅団に送られた5機のうち3機は、いつまでかは分からないが、かなり長い期間運用されたと言われている。他の2機について触れられた記述は見つけられておらず、事故等による損失があったのか、3機のパーツ取りとなったのかは不明だ。

その次に多かったのが、1942年8月─運用試験のためカリーニン戦線の第3航空軍 (3 VA) に送られた3機である。うち2機は第5親衛戦闘航空連隊に加わり、そこのパイロットにより試験が行われる事となった。

これらを飛ばしたのは、連隊長であり当時既に1度目のソ連英雄章を受章していたヴァシリー・ザイツェフ、そしてヴィタリー・ポプコフの2名だった。資料によっては同連隊のグリゴリー・オヌフリエンコの名も挙げられていたが、同月には別の連隊へ移っているという情報もあり、実際に飛行したかは不明だ。

この試験の結果については、ポプコフによる当機へのコメントが残されている。それによれば、機体は高速であることを認めつつも、「アイロンのように重い」と機動性に難があるとし、また滑走距離が長いことなども不満点として挙げ、評価は芳しいものではなかった。

何度か試験的な飛行がなされたようだが、上記の印象があってか戦闘出撃は一度として行われず、その後2機ともプロペラが損傷し、スペアも尽きたために連隊を去ったという。

一応補足だが、このザイツェフ氏は有名なスナイパーとは同姓同名の別人である。彼は427出撃, 163空戦, 34のスコアを記録し、2度のソ連英雄章を受章している。また、ポプコフ氏も345出撃, 85空戦, 40のスコアを記録し、同じく2度のソ連英雄章を受章している。

その他に分かっているものとしては、ジューコフスキー名称空軍技術アカデミーに1機が割り当てられ、1946年まで運用されていたそうだ。米英の航空機を学ぶための教材として扱われたのではと思われる。

また中央航空流体力学研究所 (TsAGI) の施設にも別の機体が展示されていた。こちらも研究機材としてだろう。

 

他には、1943年に第3航空軍の第5訓練航空連隊へ2機が渡ったという情報もあるが、これは単一の資料でしか確認出来ていないため、ここへの詳細の記載は保留としておく。確認が出来次第追記予定。

◆独・芬空軍の誤認

上記の通り、ソ連へと渡った約10機のMustangは、1機として (前線までは送られたが) 交戦した記録はなく、無論戦闘損失も無い訳である。そして、これらの他に正式なルートでソ連へと渡ったMustang/P-51は、1機として存在しない。

しかしながら、ソ連と交戦していたドイツとフィンランドの両空軍は、この『ソ連のP-51』の撃墜を記録しているのである。

 

ドイツ空軍では、1943年4月下旬に、カレリア上空にて2機のP-51の撃墜を主張している。実際にはこれは誤認で、実際に当該地域で運用されたP-51は存在しない。この話は特に補足情報も無いので以上。

 

フィンランド空軍では、複数のパイロットが『ソ連のMustang』の撃墜を主張し、また部隊の撃墜戦果としてそれらが記録されている。

『北欧空戦史』においては、巻末に収録されている筆者とフィンランドエースたちとの対談にて、Mustangにまつわるエピソードが語られている。彼らによれば、「ソ連には非公式に英国から送られた10機のP-51Aがあり、それらは全て撃墜した」ということだった。

 

詳しい話に入る前に、P-51Aという呼び名に触れておこうと思う。P-51Aの”A”が、その機種の最初の型として使われがちな為に誤解しがちだが、P-51Aの英軍での採用名はMustang Mk.Iではなく、Mustang Mk.IIである。Mk.IIはエンジンと過給機が異なる、Mk.Iとは別の型だ。なので、そもそもここに誤解か何かが存在していると言える。Mustang Mk.IIは英国に50機ぽっちしか渡っていないし、ソ連には勿論1機として送っていないのだ。

この辺りは [P-51A=Mustang Mk.I] だと誤解しているだけだと思うが、これがフィンランドのパイロット達がそうなのか、元々はMustangと言っていたのを筆者が置き換えてしまったのかは分からない。

 

どちらにせよ、これは単なる米英名称の勘違いと思われるので、これくらいにしておこう。以降は原文がP-51Aであったところも、Mustangに置き換えて記載していく。

フィンランド空軍での撃墜記録としては、下記のものが集められた。

[第24戦隊]

1944/06/18:ミュッリマキ大尉 (Kapt Myllymäki)

1944/06/26:ヴァハヴェライネン上級軍曹 (Ylik  Vahvelainen)

1944/06/26:ケスキヌンミ軍曹 (Kers  Keskinummi)

1944/06/28:カタヤイネン曹長 (Vääp Katajainen) *

1944/07/04:カルヒラ中尉 (Luutn Karhila) **

1944/07/07:カルヒラ中尉 (Luutn Karhila) **

[第34戦隊]

1944/06/18:レイノ上級軍曹 (Ylik Leino) 

1944/06/26:ユーティライネン准尉 (Ltm Juutilainen)

1944/06/28:ユーティライネン准尉 (Ltm Juutilainen)

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*:Wikipediaの24戦隊戦果一覧ではAiracobraと表記

**:Wikipediaの24戦隊戦果一覧ではJak-9 (Yak-9) と表記

 

主な収集元は下記、一部は『北欧空戦史』等による。

◆飛行第24戦隊の空中戦果と損失の一覧 - Wikipedia (芬:2021年5月1日閲覧)

https://fi.wikipedia.org/wiki/Luettelo_Lentolaivue_24:n_ilmavoitoista_ja_sotatoimitappioista

◆飛行第34戦隊の空中戦果と損失の一覧 - Wikipedia (芬:2021年5月1日閲覧)

https://fi.wikipedia.org/wiki/Luettelo_Lentolaivue_34:n_ilmavoitoista_ja_sotatoimitappioista

これらの中では、カルヒラ氏の4月7日のものと、カタヤイネン氏の6月28日のものについてが、エースとの対談の中で触れられており、空戦の大まかな話が両名に語られている。 (ただどちらも上記の一覧ではMustangとして記録されていない……)

彼らは筆者の「P-40やSpitfire, Hurricaneではないことは確かか?」という問いにも、自信をもって答えている。書籍掲載の対談の他にも、カルヒラ氏は2001年にフィンランド航空博物館 (ヴァンター航空博物館) で行われた講演においても、この件について触れていた。文字に起こされたものが、下記URLの先で読むことが出来る。Mustangの撃墜の話は、Part 3に収録されている。

◆Kyösti "KOSSI" Karhila (英)

http://www.virtualpilots.fi/hist/WW2History-KyostiKarhilaEnglish.html

という訳で、フィンランド空軍でのMustangの撃墜記録をまとめたが、勿論これらは誤認である。前の項や本項冒頭にも書いた通り、Mustang Mk.Iは数機が前線まで行ったものの、1度として戦闘目的で飛んだことは無い。

第24戦隊の戦果一覧の冒頭にも、「Mustangとあるのは恐らくYak-9だろう」といった内容の記述があるが、実際その辺りの機体と誤認したものだろう。Yak-9は翼端形状が他とは異なり、角度によっては角ばった翼端に見間違えた可能性もあるのではないかと思う。時速数百km/hで飛び回る世界なのだから、こうした誤認などよくあることである。

 

この件については、先から何度か書名を挙げている『北欧空戦史』が誤解を生んでおり、これを元にしたであろう投稿もTwitter上で目にしたことがある。対談の中で筆者は最初こそ「ソ連にMustangは渡っていない」とエースらに伝えているが、その後彼らの主張をそのまま受け取り、特に注釈なく掲載しているのだ。手元にあるのは2017年に出された新しいHOBBY JAPAN版なのだが、少なくとも初版ではこの件は特に訂正や注釈も無くそのままである。改めて書くが、これは彼らの誤解であり、Mustangと交戦した事実はない。

 

訂正もしたところで、これにてソ連が正規に入手したMustangにまつわる話は以上である。

P-51Dとシャトル爆撃

さて、『正規』での話と書いたということは、『非正規に入手していたものがある』ということだ。彼らがどのようにP-51を入手したかというと、ソ連領内に不時着した機体を回収・修理したのである。

「Why, 何故ソ連領にP-51が?」という所なので、軽くではあるがそこから話をしていこう。

 

唐突で申し訳ないが、今この記事を読んでいる貴方は『シャトル爆撃』という物をご存じだろうか?

『~爆撃』と言っても、急降下爆撃や水平爆撃のような爆撃手法の事ではない。この”シャトル”は、シャトルランのシャトルと同じ”往復”を意味する語だ。

通常の爆撃任務は、機体は爆撃した後に出撃した飛行場に帰還するのが普通だ (時と場合によっては、別の飛行場に降りることもあるだろうが)。だがこのシャトル爆撃では、攻撃目標を爆撃した後に基地へ戻らず、敵地を超えてそのまま友軍の領内まで飛び、そこの基地に降り立つのである。そこで燃料や弾薬の補給を受け、そして往路でも敵地を爆撃して元の基地まで帰投するというものだった。

[通常1700mi (約2700km) だが、シャトル爆撃なら片道1200mi (約1900km)。この分危険に晒される時間が減る]
[通常1700mi (約2700km) だが、シャトル爆撃なら片道1200mi (約1900km)。この分危険に晒される時間が減る]

一口にシャトル爆撃と言っても、これに該当する作戦は過去に複数存在している。今回関係するのは、ソビエト領内の基地を利用した『Operation Frantic』だ。これは米陸軍がウクライナにある飛行場を借り受け、イギリス~ソビエト及びイタリア南部~ソビエト間を往復して爆撃を加えていくというものだった。

敵地後方の拠点・工業地帯への爆撃は長大な航続距離が求められ、長く飛ぶということは、それだけ危険もある。そこで敵地を超えて友軍の占領地まで飛んでしまえば、図に示されているように、距離も時間も短縮され、損失率は低下するだろうということだ。

 

勿論これは実利的な面だけでなく、裏の政治的な駆け引き、枢軸側に対する米ソ関係の誇示なども絡んだものであるが、今回はそこはメインではないので割愛する。

このシャトル爆撃―『Operation Frantic』において、ソビエトは3つの飛行場を貸し与え、基地の防空含む様々なサポートをしたわけだが、別にこの作戦においてソ連にP-51が供与されたという訳ではない。既に冒頭で述べているが、ソ連はこの作戦で領内に墜ちた機体を回収したのである。

被弾した、機器が故障した、機位を失った―理由は様々だが、少なくない数のP-51がソ連領に墜ちた。45年5月までに十数のP-51B, CおよびD型が領内で確認されており、これらの一部を元にP-51Dが飛行状態にまで修理された。

機体はクラトヴォの飛行場 (現ジュコーフスキー/ラメンスコエ空港) に運ばれ、時期は不明だが試験が行われた。行われたと言っても、いつもの様な詳細なものではなかった。端的に言って、既にソ連はこの機に興味が無かったのである。当時は次世代の戦闘機はジェット推進式であると目されており、いくら最優秀戦闘機の一つに数えられる機体といっても、今更得るものは無いと思ったのだろう。もしかすると、先述のMustang Mk.Iへの評価が、当機へのイメージを悪くしていたのかもしれない。[独自研究]

 

さて、行われた試験は簡単な機体の特性を掴む程度のものであった訳だが、それによると次のようであった。

加速性能と降下時の安定性が勝れていた一方で、低高度及び中高度では、以前 (Mustang Mk.Iのこと) のと同じように重く、上昇性能と水平面での操縦性はやはりソ連戦闘機と比べ劣ると評価している。

また、やはり中高度以上の性能は高いことを認識しており、高度5,000m以上ではソ連機は比較にならないと判断している。

戦闘機としての興味は失われていたが、その構造や各種機器についてはいまだ学ぶところがあるようで、これらについては技術者によって徹底的に研究されたようだ。いくらかの要素は、その後の航空機生産に取り入れられたことだろう。

 

非正規な入手による話も以上で、今回はここまで。


今回はソ連のMustang/P-51についてであった訳だが、いかがだっただろうか。正直なところ、記事を読み始める前に想像したよりも、かなーり地味だったのではないだろうか?

実際、他にソ連に渡った戦闘機―P-39, P-40, Hurricane, Spitfireらは勿論、居場所がないとされたP-47と比べてすら、その活躍は華が無いものだったと言っていいだろう。

 

とはいえ、個人的には興味深いポイントがあり、知識欲を満たすものでもあった。例えば、当機の運用はレンドリース機の空輸といった、裏方ながら重要な要素との関わりを持っていたし、Mustangの試験についても、ソ連が戦闘機に求めていた要素が何かを再確認出来るところが面白くあった。この記事では名前が出た程度であったAlSibルートも、記事を書くにあたって調べた中で色々と新たに知ることが多くあった。いつかは紹介したいところだが……いつになることやら。

 

当機については一つ疑問があり、それは「偵察機運用は検討されたのか?」というところだ。頭に書いた通りRAFでは偵察機としても運用されており、またソ連でもしばしば戦闘機が偵察飛行を行うということもあった。海軍航空隊の話ではあるが、RAFから引き渡された数機ばかりのSpitfire PR Mk.IVが偵察機として重宝されていたし、こちらもそういった運用をすればよかったのでは?と素人としては思うのだ。

まぁ、恐らくは時期的に不要であったり、何かしらあったのだろう。長大な航続距離を飛ぶ偵察には航法士が必須とか、そういうことかもしれない。 (海軍はやはりというか、航法をしっかりやるようだ。その辺りの違いもあるか?)

疑問を抱えつつ、一旦これにて調査は終わろうと思う。文中にある要調査事項は、新たな資料が手に入り次第調べてみよう。

Special Thanks★

みるすき氏:第24戦隊の戦果一覧の情報を頂きました。ありがとうございました!


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<参考リスト>

=書籍=

■『北欧空戦史』(2017/2007:学研M文庫版)

P.407, 465-469

『Lend-Lease and Soviet Aviation in the Second World War』(2017)

P.262-263

■ミリタリー・クラシックス Vol.65, イカロス出版 (2019)

P.30-32, 36, 38, 48

■『世界の傑作機 No.75 P-51A, B, C ムスタング』文林堂, (1999)

P.65ほか、Mustang Mk.Iについての参考とした

■『第二次大戦世界の戦闘機 1939-1945』(2014)

 P.103 (Kindle版だが実書籍と同じ形式)

■『Soviet Lend-Lease Fighter Aces of World War 2』, Mellinger, George, Bloomsbury Publishing, ()

Kindle の位置No.1628-1630

 

=Web=

 ◆P-51A/C "Mustang" - AirPages.ru (露:2021/04/17アクセス)

https://airpages.ru/us/p51a.shtml

◆P-51D "Mustang" - AirPages.ru (露:2021/04/17アクセス)

https://airpages.ru/us/p51d.shtml

◆Р-51 «Мустанг» (Mustang) в НИИ ВВС - AirPages.ru (露:2021/04/17アクセス)

https://airpages.ru/us/p51_2.shtml

◆Operation Frantic - Wikipedia (英:2021/04/29アクセス)

https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Frantic

◆第6予備航空旅団 (露:2021/04/17アクセス)

http://allaces.ru/sssr/struct/b/zab6.php

◆第1空輸航空師団 (露:2021/04/17アクセス) 

http://allaces.ru/sssr/struct/d/pad1.php

◆ヴァシリー・ザイツェフ - Wikipedia (英:2021/04/17アクセス)

https://en.wikipedia.org/wiki/Vasily_Zaitsev_(pilot)

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%97%D0%B0%D0%B9%D1%86%D0%B5%D0%B2,_%D0%92%D0%B0%D1%81%D0%B8%D0%BB%D0%B8%D0%B9_%D0%90%D0%BB%D0%B5%D0%BA%D1%81%D0%B0%D0%BD%D0%B4%D1%80%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87

◆ヴィタリー・ポプコフ - Wikipedia (露:2021/04/17アクセス)

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9F%D0%BE%D0%BF%D0%BA%D0%BE%D0%B2,_%D0%92%D0%B8%D1%82%D0%B0%D0%BB%D0%B8%D0%B9_%D0%98%D0%B2%D0%B0%D0%BD%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87

 

その他芬空軍第24, 34戦隊戦果一覧やインタビューなどは文中に記載。