ソ連のSupermarine Spitfire


更新履歴 (内容に変化ないものは除く)

[2018/05/06] 新規作成。

ソ連へ送られた英国戦闘機の一つであるSpitfireについて、分かった範囲で記そうと思う。

スーパーマリン Spitfireについてはよく知られている通りであるので、機体解説は基本的に省略する。

 

◎Spitfire PR Mk.IV

ソ連で最初に使用されたのは、このSpitfire PR Mk.IVというモデルであった。”PR”は”Photo Reconnaissance”の略であり、その字の通り偵察機型であった。主翼内の武装を廃し燃料タンクを増設、そして胴体には偵察用のカメラ機材を搭載していた。このモデルは計229機が作られている。

<◎RAFによるソ連での運用>

Spitfireが最初にソ連の地に降り立ったのは1942年9月。3機のPR Mk.IVが、【Operation Orator】への参加の為にコラ半島へと移動したものだった。

【Operation Orator】とは、王立英国空軍 (RAF) によるPQ18船団の航空援護作戦である。前回のPQ17はドイツ軍のUボート及び航空機によって非常に大きな損害を出し、加えて今回は戦艦『ティルピッツ』の出撃も予測されていた。その為、今回のPQ18には空母を含む護衛の艦船に加え、ソ連領からの航空援護を付ける事としたのである。

 

【Operation Orator】に際し、RAFと王立オーストラリア空軍 (RAAF) の混成部隊が組まれた。これはHampden爆撃機32機、カタリナ飛行艇9機、そして第1写真偵察隊 (No. 1 Photographic Reconnaissance Unit, 以下1 PRU) のSpitfire PR Mk.IV 3機によって構成されていた。

9月1日、この3機はスコットランド本土から北に170kmにある、シェトランド諸島のサンボロー (

Sumburgh) 飛行場から飛び立った。北海、ドイツの占領下にあるノルウェー、中立国スウェーデン、ボスニア湾、フィンランドを超え、4.5時間―1,950kmの長距離飛行の果てにソ連のAfrikanda (露:Африканда) へと到着した。

これらはムルマンスク近くのVaenga飛行場で活動した (Vaenga-1ではなく、その近くの飛行場らしい)。ソ連機と同様に赤い星を付け、計20出撃を行った。

 

結局のところ独戦艦『ティルピッツ』は出撃する事は無く、それにより混成部隊もあまり出撃は無かったらしい (ただ爆撃などは度々受けていたらしく、いくらかの損害が出ている)。PQ18船団は9月21日にアルハンゲリスクに到着。それにより作戦も終了した。

pic01:赤い星を付け運用されていたSpitfire PR Mk.IVの1機。
Photo from:https://warspot.ru/4318-arkticheskie-konvoi-plechom-k-plechu-v-holodnom-uglu-ada

<★ソ連による運用>

【Operation Orator】にて使用されていた3機の偵察型Spitfireは、その後ソ連の北方艦隊航空隊に譲渡されている。これが、ソ連が手にした最初のSpitfireとなった。

RAFのエンジニアによると、うち2機はまだ十分に飛行可能であり、3機目は部品取りに使えるという話であった。1942年10月20日、これらの3機は正式にソ連側に受け入れられた。

譲渡された理由ははっきりした事は不明だが、この3機を保有していた1 PRUは42年10月18日に解散して、5つの飛行隊に分かれたらしい。この時PR Mk.IVは不要機として処分=ソ連に譲渡されたのではないだろうかと考える事も出来る。

もしくはソ連から英国へ戻るのが困難であったのではないかというのも考えられる。この時一緒に配備されていたHampdenは帰還が困難であるとして、まとまった数がソ連に譲渡されている。これと同様の理由でSpitfireも残されたのではないかという訳である。

どちらも筆者の憶測であり、参照した書籍でははっきりした事は分からなかった。

 

偵察型Spitfireはソ連海軍北方艦隊の第118独立偵察航空連隊 (露:118 ОРАП, 以下118 ORAP) に配備された。広大な範囲を高速で飛行可能な当機を得たソ連は、フィンランドやノルウェー北部で活動するドイツ艦艇及び航空機の動きについての情報を得ることが可能となった。

搭乗したパイロットは”Spitfire”の高速性、機動性、優れた高高度性能を高く評価している。偵察型である為か、これ以上の評価は得られなかった。

PR Mk.IVは非武装であり、ソ連で新たに追加するような事も無かった。唯一の”武器”は、コクピット後部に備えられた非常用の”PPSh短機関銃”のみであった。

 

1943年9月、英国は再びムルマンスクに3機の偵察型Spitfireを送り込んだ。これは以前より英国を悩ませてきた、『ティルピッツ』への攻撃を行うための作戦―【Operation Brawn】等の準備の為であった。

この際送られたのは、PR Mk.IVであったとするものと、PR Mk.XIであったとするものがあった。参考資料をつき合わせた結果、当記事ではPR Mk.IVであったとする説を採ることとした。

彼らはアルタ・フィヨルドのティルピッツの撮影のために何度か出撃を行ったが、低く立ち込める雲、戦闘機、対空砲などに阻まれ、上手く行かなかった。9月12日にも2回出撃を行ったが、どちらも厚い雲に阻まれ失敗に終わった。

経緯は不明だが、これを引き継ぐ形でソ連北方艦隊航空隊 118 ORAPのLeonid Elkinが出撃した。この日の雲は下縁部で200~300mほどと低く、また目的地周囲も視界も悪い為に50mの所を飛ぶなど、かなり苦戦を強いられた。彼は水面付近を飛び続け、ついに目的の艦艇の撮影に成功。その後、無事写真と共に基地へと帰還した。この時の写真はすぐさま英国へ引き渡され、これを元にX艇による【Operation Source】が行われたという。この活躍により彼はソ連邦英雄の称号が与えられ、英国からも大英帝国勲章を授与された。

作戦の成功によりティルピッツが行動不能となったため、RAFのパイロット達は引き揚げる事となった。この時も彼らの乗機は北方艦隊の118 ORAPへと譲渡されたという。

 

1944年にも偵察型がムルマンスクへ送られ、またその後ソ連側に譲渡されたと言う情報もあるが、詳細は確認出来ていない。

 

北方艦隊は最終的に計7機の使用可能なPR Mk.IVを受け取った。スペア扱いの機を含めると10機であり、書類上でもその数になっているそうだ。同時運用可能状態な機体は、最大で3もしくは4機であった。基本的にスペアパーツの供給が無かったので、その辺りに苦労していたようだ。MiG-3のホイールがSpitfireと適合するので、これを使っていたという話もあった。

 

ソ連でPR型のSpitfireを運用したのは、118 ORAPのみであった。スペアが限られ補充もほぼ無いために、徐々に保有機数を減らしており、1944年6月1日には4機あったが、1945年2月1日には2機にまで減った。1946年に最後の1機が博物館に引き取られたようであるが、残念ながらこの機の行方は分かっていない。


◎Spitfire Mk.V

1942年10月、ヨシフ・スターリンは英首相ウィンストン・チャーチルへ「早急に”Spitfire”を供給してほしい」という旨の文書を送った。チャーチルは150機のSpitfireとスペア用の機体フレーム50機分を送る事で合意した。

供与されたのはMk.Vbと呼ばれるモデルだった。Mk.VのB翼を有する事を示し、この翼は4丁の7.7mmと2門の20mm機関砲を装備したものだった。これらが最初に到着したのは43年1月10日、残りは3月末までに到着した。

 

ソ連で最初にSpitfire Mk.Vを受領したのは第57親衛戦闘機連隊 (以下57 GvIAP、元第36戦闘機連隊) で、4月に運用を開始。4月28日にはクバンの戦いに参加し、主な任務は爆撃機や攻撃機の護衛であったという。

この連隊は運が悪い事に、かのベテラン揃いの部隊であるJG52と何度も交戦しているようで、JG52のパイロットの一部はこの時期にSpitfireの撃墜を記録している。対峙したJG52は、まさか東部戦線でSpitfireと遭遇するとは考えておらず、交戦時はかなり衝撃を受けたようだ。

57 GvIAPは計29機を受領。13機を空戦で失い、25機のBf109を含む計48機を撃墜したという (この記録の出どころは不明だが、恐らく部隊における記録ではないだろうかと思われる。であれば、実際の撃墜数はより少ないものだろう [独自研究])。

57 GvIAPは6月に大きな被害を受けた為に一旦後方へと下がり、新たにP-39を受領する為の準備に入った。

 

残存機は以前よりSpitfireへの慣熟訓練を行っていた、第821戦闘機連隊 (821 IAP) へ引き渡されている。821 IAPは6週間で93回の空戦を行い、32の撃墜を記録。16機を空戦で、4機を事故で失った。撃墜のうちの1つは、空対空の体当たり攻撃『タラーン (露:Таран)』によるものだった。

こちらの部隊も戦いの中で保有機を多く失った為、後にP-39へ機種転換を行っている。

 

この他にも、第236戦闘航空師団隷下の第117・267戦闘航空連隊もいくらかのMk.Vを運用した。

 

海軍には17機のSpitfire Mk.Vが供給され、その殆どは黒海艦隊に配備されたという。これらは1944年11月1日になっても10機が残存していた。

黒海艦隊の7 IAP-ChFは1943年にいくつかのMk.Vを有していた。しかしながら戦闘などに関して特筆すべき事柄は無いという。この部隊の主な目的はカタパルトによる航空機の発進についての実験/研究であったからだ。

恐らくこれは1943年の「巡洋艦モロトフに搭載されたZK-1aカタパルトによる射出試験に、Spitfire Mk.Vが使われた」という話に関係している部隊だと思われるが、詳細は不明。

 

Spitfireが前線で運用された期間は長くなかった。Spitfireの主脚がソ連の地における運用に適していなかった為である。

Spitfireの主脚はBf109と同じ外側に引き込むスタイルとなっており、トレッド (左右の車輪間隔) は1.74mに過ぎなかった。参考までに同国のHurricaneは2.4m、Fw190は3.5mであり、その狭さが見てとれる。

ソ連の前線基地は凸凹とした草原であったり、もしくは雪解けの季節であればほぼ泥地のような状態となることも珍しくはない。トレッドが狭いSpitfireではこれらに脚を取られ、翼端が地面を叩く、つんのめって機首が地面に突き刺さるなどの事故を起こしがちであった。

 

その後Spitfireは主に防空軍 (PVO) で使用された。20mm機関砲2門という強力な武装と、優れた高高度性能を有しており、また先述の主脚の件も整備されたPVOの基地であれば問題とならなかった。

 

モスクワの防空域を活動地域としていた第320戦闘航空師団 (320 IAD) 隷下の第16戦闘航空連隊 (16 IAP-PVO) は、15機のSpitfire Mk.Vを運用していた。後にMk.IXを受領する第26戦闘航空連隊 (26 IAP-PVO、後の26 GvIAP-PVO) も、1943年6月24日に8機ほど受領している。第439戦闘航空連隊 (439 IAP-PVO) も44年よりSpitfireを運用していたそうであるが、詳細は不明である。

 

PVOでの運用においては、良好な高高度性能と火力の高さを発揮したが、着陸灯やナビゲーション装置が無い事から、悪天候や夜間の運用を困難としたと言われる。これに対し一部の機体は自国製のRPK-10M (露:РПК-10М、恐らくナビゲーション装置の事だと思われる) を搭載することで対処していた。

pic02:PVOのMk.V、アンテナマストの後ろにRPK-10M用のループアンテナが増設されている。
Photo from:https://topwar.ru/22588-sovetskie-asy-na-istrebitelyah-lend-liza-chast-4spitfayry.html

ソ連は同じ英国製の戦闘機、Hurricaneを攻撃機としても使用していたが、Spitfireは純粋な戦闘機として使用していた。HurricaneやP-40のように爆弾ラックやRS-82ロケット弾を装備する事も無かった。

 

ソ連における評価だが、シンプルで操縦が容易なこの機体は、平均以下の腕のパイロットでも扱えるとされた。高高度性能と速度性能、火力の高さもかなり評価されているそうである。

火力に関しては、1943年にYak-9Tが現れるまではソ連軍の配備機の中で最も高い機体としてあり続けた (P-39もそれなりだが、投射量ではこちらが勝るのだろうか?書籍ではYak-9Tまではトップとあった)。

ただ先述の通り、主脚間隔が狭い事などを欠陥として挙げられており、実際ぬかるみや凹凸のある飛行場での事故が多かった。P-39がソ連の大地に適していたとするなら、Spitfireは適していない機体であったと言える。

また、水平面での機動性が優れている一方、垂直面の方は良くないとも言われていた。加速も”ゆっくり”だったとしている。

 

あるソ連パイロットのインタビューによると、彼らはこのMk.Vに大きく失望したという。拙いものであるが以下に翻訳した内容を記す。

 

「我々はその時、英国がさらに良い戦闘機 Spitfire Mk.IXを持っていて、それが優れているという事を知っていた。しかし彼らが我々に送った機体は、それよりも遥かに古い型だった... ...そして、それらは修理前に多くのダメージを受けた機体であり、そういったものが送られてきたのだ。速度はI-16よりあまり優れたというものでは無かったし......ヤコヴレフやラヴォチキンが設計したソ連製戦闘機の方が良い性能を発揮したよ......」――アナトリー・イワノフ上級中尉

 

訳が怪しいので、気になる人はこちら(⇒リンク)から原文を確認されたし。

 

たとえ旧式となっていたMk.Vであっても、更に旧式なI-16に僅かに勝る程度の速度だったと言うのはあまり想像できない。これらの機体は元々RAFで使用されていた機体だが、”一度ダメージを受け修理された機体達”だった訳で、本来の性能を発揮できない状態であったのでは?とも考えられる (エンジンなども恐らく新品ではないだろう)。

流石にこれだけでは判断出来ないので、更なる調査を行いたいところである。


◎Spitfire LF/HF Mk.IX

1944年2月になると、より強力なエンジンを搭載したSpitfire Mk.IXが供給され始めた。このMk.IXは計1,185機が送られ、うち1,183機がLF・・・低高度仕様、残りの2機がHF・・・高高度仕様であった。低高度仕様の機体がその殆どを占めている事からも、ソ連が低高度で高い性能を発揮する機体を欲していた事が分かる。2機と明らかに数の少ないHFは、恐らくは研究を目的にしたものだと思われる。

合計数が上記とは一致しないが、これらのMk.IXの翼のタイプは、LF IXcが190機で、LF IXeが989機、HF IXeが2機だった。末尾のcは20mm2門と7.7mm4挺、eは20mm2門と12.7mm2挺を装備した翼である事を示す。

翼端についてであるが、ソ連では基本的に切断翼状態にしており、高高度を飛行する時にのみ標準の翼端部パーツ (幅50cm) を取り付けていたという。LFやHFはエンジンの形式が異なるものであって、翼端形状とは関係がないものなのである。

pic03:試験を受けるLF Mk.IXeの1機。翼端が角ばった、いわゆる切断翼になっている。
Photo from:http://www.k2x2.info/transport_i_aviacija/aviacija_i_kosmonavtika_2006_05/p6.php

LF Mk.IXの試験は1944年9月に行われた。その結果、Mk.IXはその優れたエンジンにより、自国製戦闘機シリーズよりも遥かに優れた高高度性能を有する事が分かった。LF仕様であっても高度12,500mに上昇可能であり、HFであればさらに13,100mまで到達出来た。これはYak-9Uよりも2,450m高く、そしてLa-7より2,350m高いものであった。高高度性能の高さを示したエピソードに、次のようなものがある。

1945年3月8日、レニングラードにて、パイロットV・RybinとA・Fedotov (11・102 GvIAP所属) が高高度を飛行するJu88を迎撃し、そして撃墜に成功した。

撃墜された機体はJu88の後期型 (SもしくはT型) の一つで、性能を高める為エンジンが強化されていたものだったという。S型はGM-1 亜酸化窒素ブースト機能が搭載されていたという記述がみられるので、恐らくこれの事だろう。なおT型というのはS型の三座偵察機モデルであったようだ。

高高度を飛行可能なドイツの偵察機/爆撃機は、ソ連の戦闘機に対し無敵の存在であった。高高度性能に優れると言われるMiG-3も、飛行高度が1万mを超えるJu86Pなどの迎撃は困難であったし、より高高度性能に劣るYakやLaGG/Laならばなおさらだった。本当に無敵だったのだろう。英国からの刺客、Spitfire Mk.IXが現れるまでは。

 

しかしながら、Spitfire Mk.IXの低・中高度においての性能は、ソ連の新型機には劣るものであった。地上付近での速度ではLa-7よりも100km/h程劣っていた。その為ソ連は、前線でのSpitfire Mk.IXの使用は賢明でないとし、大半を占める825機は前線より離れた都市・拠点を守るPVOの連隊へと引き渡された。

 

Mk.IXは1944年夏から配備が始まったという。LF Mk.IXは、レニングラードの26 GvIAP (45年2月~)・27 GvIAP (44年秋~)、モスクワの16 IAP・177 IAP、ムルマンスクの767 IAPなどに配備され、それぞれの都市の防空に就いた。

また、高高度仕様であるHFのうちの1機も16 IAP-PVOに配備され、"Spitfire 9G"と呼ばれたという話もある。試験の為か、実戦配備の為なのかは不明である。

 

引き渡された時期が遅かった為か情報が少なく、多くがPVOで運用されていた事もあってその戦果や損失などは不明である。


Spitfire Mk.IX UTI (Mk.IX УТИ)

ソ連のSpitfireの中で最も特異な例が、ソ連で改造された複座型モデルである。詳しい背景は不明だが、大戦の後期に1機がレニングラードのNo.1 Aircraft Depotにて複座に改造されているらしい。少なくとも1944年末には存在していたようだ。

スーパーマリン社が関与したものではないため、本家の複座型とは形状が異なっているという。

pic04:Mk.IX UTIと呼ばれる、複座型に改修された機体。
Photo from:http://airwar.ru/enc/fww2/spit9.html

Spitfire LF Mk.XVI

あまり聞きなれない型名称であるが、実は米国製のパッカードマーリンを搭載した事実上のMk.IXである。外見上の見分けは不可能 (?)。仕様はほぼ同じであるようだが、エンジン周り (ネジ等部品) の規格は少し違うらしい。

45年春にこのLF Mk.XVIが9機送られたという情報があるが、詳細は不明。


戦後の運用

戦争の終わりには、計946機のSpitfire (主にMk.IX) がPVOに残存しており、一部は50年代まで配備されていたという。また、ジェット機が実用化されるとこれらは順に置き換えられていった。

戦後、Spitfire達はその高高度性能の高さから、ジェット機へ乗る前の高高度飛行練習機として使われたとされる。

大戦中に前線で戦っていたソ連の戦闘機パイロット達は、「(低高度戦が主だった為に)高度5,000mまで上がった事すら稀だった」と証言する者も多い。Mk.IXの項で記した通り、ソ連機の高高度性能はあまり高いものではなく (そもそも求められていないのだから当然であるが)、また戦中に中高度以上を飛行した経験があるパイロットもあまり多くないと予想される。その為に「この状態でジェットに乗り、高高度を飛行すると危ない」と判断し、このような運用がなされたのではないかと考えられる [独自研究]。

どれほどの数が高高度飛行練習機として運用されたかは不明である。


赤い星を付けたSpitfireの話は以上である。

 

英国の偉大なる『救国戦闘機』であり、最優秀戦闘機の一つにも数えられるSpitfireだが、ソ連においては同じくレンドリース機であるP-39の様な大きな活躍は残せなかった。勿論ソ連のパイロットは性能や扱いやすさ等を評価しているし、戦果が挙げられなかったのはHurricane・P-39・P-40と比べて到着が遅かった事や、前線運用に向いていない主脚形態であった事などが原因である。機体自体に落ち度がある訳ではないのではある。とはいえ、やはりソ連での活躍はいささか物足りないものだ。

 

しかしながら、都市や拠点の防空・迎撃任務、偵察機・観測機の排除任務に長けていたことはソ連での活躍からも伺えるもので、YakシリーズやLaGG/Laシリーズが苦手とした高空の守護を受け持ち、役割をしっかりと果たした事を考えれば、この機もソ連にとって必要であった存在と言えよう。

 

レンドリース機や購入機の様な「他国製の機体の運用」というのは、こういった”所変われば評価も活躍も変わる”というところが魅力的であると思う。今後もこれらの機体を追ってみたい。


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コメント: 1
  • #1

    HK (火曜日, 01 1月 2019 17:51)

    とても興味深く参考になる話を有難うございました!僕はまだソ連の文献は翻訳ができず、またソ連での航空機の運用の背景を自力で1から学ぶのも大変なのでこのようにして綺麗にまとめられているととても助かります!とても楽しんで読ませていただきました( ´艸`)


<参考リスト>

=書籍=

■ミリタリー・クラシックス Vol.23, イカロス出版, (2008)

P.78-85 (Spitfire特集の項の装備類など)

■The Decisive Duel:Spitfire vs 109, Little, Brown Book Group, (2012)

P.306-311 (12.A Global Air War)

 

=Web=

◆VVS RKKAでの≪Spitfire≫(露)

http://alternathistory.org.ua/spitfairy-v-vvs-rkka

◆連隊と使用機材まとめ(露)

http://aviahobby.ru/publ/soviaps/1_50iap.html#36

◆Russian fighter aces on the Lend-Lease. Part 4. Spitfire(リンク切れ:2021/01/21)

http://survincity.com/2012/02/russian-fighter-aces-on-the-lend-lease-part-4/

 ↓ 恐らく同じ内容のページ

https://ja.ww2facts.net/23915-soviet-aces-on-lend-lease-fighters-part-4-spitfire.html

◆スーパーマリン スピットファイア(露)

http://www.k2x2.info/transport_i_aviacija/aviacija_i_kosmonavtika_2006_05/p6.php

ソ連のSpitfireパイロット (露)

http://airaces.narod.ru/all/spit_vvs.htm

ドイツパイロットが目撃したタラーン例:821 IAPのSpit(英)

http://www.bergstrombooks.elknet.pl/bc-rs/batz.htm

Spit over Kuban

http://lend-lease.airforce.ru/english/articles/spit/

Supermarine “Spitfire” / Aerospace 2006 05(露)

http://www.k2x2.info/transport_i_aviacija/aviacija_i_kosmonavtika_2006_05/p6.php

Spitfire Mk.IX-Airwar.ru(露)

http://www.airwar.ru/enc/fww2/spit9.html

 

【Spitfire PR Mk.IV関連】

Operation Orator-Wikipedia(英)

https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Orator

No. 1 Photographic Reconnaissance Unit RAF-Wikipedia(英)

https://en.wikipedia.org/wiki/No._1_Photographic_Reconnaissance_Unit_RAF

Один и без оружия-nnre.ru(露)

http://www.nnre.ru/transport_i_aviacija/mir_aviacii_1993_01/p7.php

Operation Brawn(英)

http://codenames.info/operation/brawn/

ティルピッツの歴史 Operation Source(英)

https://www.bismarck-class.dk/tirpitz/history/tiropersource.html

撮影したLeonid Elkin:ЕЛЬКИН Леонид Ильич

http://starina44.ru/elkin-leonid-ilich

レンドリース機のソ連エース 第4部 Spitfire(露)PRやVやIXなど

http://survincity.com/2012/02/russian-fighter-aces-on-the-lend-lease-part-4/

British Aircraft in Russian Service-Soviet Hammer(英)

http://soviethammer.blogspot.jp/2015/03/british-aircraft-in-russian-service.html

821 ИАП-НЕБО БИТЕБСКА(露)

http://www.pobeda.witebsk.by/sky/bp/821iap/

 

【インタビュー類】

Мухмедиаров Владимир Михайлович(露):1947年からSpitfireに

http://iremember.ru/memoirs/letchiki-istrebiteli/mukhmediarov-vladimir-mikhaylovich/

Кулаков Леонид Сергеевич(露):大戦末期にSpitfireに、4機撃墜

http://iremember.ru/memoirs/letchiki-istrebiteli/kulakov-leonid-sergeevich/

Сергеев Николай Дмитриевич(露):27GvIAPのメカニック?

http://iremember.ru/memoirs/letno-tekh-sostav/sergeev-nikolay-dmitrievich/

記事に使ってないが関連したページ:

◆80 years ago, September 1941 – Hurricanes to Russia (Operation Benedict)|RAF Memorial Flight Club

https://www.memorialflightclub.com/blog/80-years-ago-september-1941-%E2%80%93-hurricanes-russia-operation-benedict